僕はみんなが「Pokémon GO」をやり始めた辺りから何かがおかしいなと思っています。
「こんなにみんなが同じことをしていたっけ?」という違和感。特に強く感じるのは映画。みんなが「カメラを止めるな!」を観たと思ったら、みんなが「ミッドサマー」を観ていて、そしたら今度はみんなが「花束みたいな恋をした」を観ていて、何かがおかしいなという気がしているのです。
僕が10代だった頃、みんなもっと別々の映画を観ていた気がします。アニメしか観ない奴もいれば、ミーハーな映画しか観ない奴もいれば、マニアックなものしか観ない奴もいた。だけど今は、SNSで会話をするための必須教養みたいな作品が定期的に出てきて、みんなが「とりあえず押さえとく」みたいな感じで観て、感想を言いあっている気がします。
大学で社会学の授業を受けていた約10年前、ポストモダンか何かの授業で「昭和時代はみんなが同じものに熱中していたが、時代が移り変わって個々が好きなものを楽しむようになった」的なことを教授が言っていました。その割には最近、みんなが同じ音楽や映画を楽しんでいるような気がする。この10年で何かが変わったのでしょうか。昭和時代に戻ったのでしょうか。
正俊とその話をしていて、僕たちは2の仮説を立てました。
仮説①人々が貧乏になっている
好きなものを好きなだけ観ることはお金がかかるので、映画フリークでない限り、1カ月に劇場に足を運べる金と時間は限られています。みんな失敗しない映画選びをしたいので、ほかの人が良いと言っているものを観る。同じことを同じ分量で言うと「日本人が貧乏になる」→「みんな何にお金を使うかをより慎重に検討するようになる」→「映画を観るときも失敗したくない」→「みんながいいと言っているものを観るようになる」ということですね。
仮説②みんなが「良い」と言ってるものが確かに良いことに気付き始めた
かつての人々はもう少し自分の好みを過信していて、予告や前情報の段階で「好きじゃなさそう」と思ったらその作品は観ずに、自分が好きそうなものを観ていたと思います。しかしSNSが普及したことによって、他人のレコメンドが以前より耳に入ってくるようになった。で、「他人のオススメを観てみたら意外といいじゃんと思った」という体験をする人が増えた。これが繰り返されることで、国民が全体的に「みんながいいというものはいい」というモードになっている気がします。
仮説を立てただけで終わりです。僕は学者ではありませんので、それを立証する必要はないのです。「皆さんはどう思うか」と投げかけるのみです。しかし結局、根底にあるのは「日本の貧困化」「SNSの普及」ですね。現在の日本で起こっている現象ってほとんど「日本の貧困化」「SNSの普及」で説明できるのでは。今度、すべてを「日本の貧困化」「SNSの普及」で強引に説明する遊びをしてみようかしらと思っています。
もう1つ、仮説までいかない「悪寒」というものも立てました。
悪寒①厨二病が嫌われている。
「みんなが知らない音楽を聴いて悦に浸りたい」「ミーハーなものは認めない」という厨二病的な精神性が嫌われていて、「みんながいいというものを素直に享受する」「ミーハーなものでも素直に褒める」という姿勢が良いものとされている感はヒシヒシと感じます。
僕は前者なのでわかります。私が当事者です。そして、そんな世間に「果たしてそうかな」という思いをずっと持っています。僕はどんなに嫌われようと、みんなが知らないものを見聞きしたいという精神を忘れずにいきたいです。映画館に行って「花束みたいな恋をした」と「亀の臓器観察映像 ~損するから観るな~」のどちらかしかやっていないとなったら、迷わず「亀の臓器観察映像 ~損するから観るな~」のチケットを購入したいと思います。
仕事現場に行くため、青山霊園を突っ切った。
その景色に俺はひどく動揺し、感動した。
衝撃的な光景は、言葉ではうまく言い表せまい。
丘の上で墓が地平線まで広がり、その先に高層ビルが見える。
通りには石屋や花屋が並んでいた。
墓の景色に胸躍るのは不謹慎だろうか。
いや、美しい景色に感動して何が不謹慎か。
朝起きると天気が良かったので、東京の東端エリアに行くことにした。
いろいろ迷ったが、柴又へと向かった。
柴又駅を降りた俺は、江戸川へと歩いた。
江戸川は東京と千葉の境界を成す川で、ここを運行する渡り舟「矢切の渡し」で有名だ。
ということで200円を払い、矢切の渡しに乗ることにした。
幼稚園児くらいの小さな女の子も2人乗っており、
舟のギリギリのところに横になって空を眺めていた。
落ちないか少し心配だが、気持ちよさそうだ。
俺もしたかったが、大人なのでできず、
ただただ真剣な表情で舟の進む方向を見つめた。
勇ましい表情だったと思う。